100年ほど前に、ユクスキュルさん(生物学者でしたっけ?)は言いました。
「生物の全ては独自の感覚器官をもっていて、たとえ同じ環境にいたとしても、その環境を全く異なる像・状況として知覚している。個別の生物が個別に認識しているそれぞれの世界の像を❛環世界とよぶ❜」
これは人間にも当てはまる。
ある一つに出来事がある。例えば、大学受験に落ちた。
Aさんは大学受験に落ちたことに対して、「一年間勉強する機会をいただいたってことだな。これまで勉強なんてまともにしたことがなかったから、ついてる、有難いな。」と考える。
一方のBさんは大学受験に落ちたことに対して、「やっぱり自分はついてない、何をやってもだめなやつなんだ」と考える。
このふたりの違いは、出来事を認識し解釈する思考の枠組みです。
ユクスキュルさんのいう「独自の感覚器官」が、僕たちの「思考の枠組み」ではないかと思うんです。
「思考の枠組み」次第で、世界を「温かい・優しい・恵まれている」と認識する人がいる一方、
世界を「冷たい、厳しい、飢えている」と認識する人もいるのです。
このように考えると、やはり、人間も一人一人が独自の❛環世界❜を生きていると思うのです。
すると、世界はひとつでない?と考えられるようになってきます。
ここで一つ疑問が湧いてきます。
じゃあ、私たちがいわゆる「世界」とよんでいるものはなんなのか。
それは一人一人が知覚している❛環世界❜の集合、総体ではないでしょうか。
確かに存在はしているのですが、「私」という一人の人間がそのすべてを感じること、知覚することは難しいものです。
「「世界」をみたことある?」って周りの人にきいてみてください。
恐らく、みんな「みたことあるよ」って言うと思いますが、
僕たちはいわゆる「世界」を見ているようで、全く見れていないんです。
自分が知覚している❛環世界❜を自分の「思考の枠組み」でみているだけなんです。
この考え方をすることで、「世界の正しさ」って本当にあるのかな?と思えるようになるのではないでしょうか。
何度も書いていますが、僕たちは己の「思考の枠組み」で世界を知覚しています。
ある人にとっての「正しさ」が、他の人にとっての「正しさ」とは言い切れないのです。
そして、誰もが己の❛環世界❜の創り手なのです。そこにどちらが優れているとか劣っているとかはないのです。
人間と魚のどちらが優れているかの判断が出来ないように、人間同士も本来比較できるものではないと思うんです。
それぞれの❛環世界❜を充実させて、自分はこれをしたい!これが楽しい!と思えることをやって、突き進んでいけばいいのではないでしょうか。
これを書いていて、少年時代、父か口酸っぱく言われていた「他人は他人、自分は自分」という言葉を思い出しました。
父はそれぞれの❛環世界❜のことを言っていたんだな。
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